最高裁判所第三小法廷 昭和25年(オ)108号 判決 1952年3月18日
主文
本件上告を棄却する。
上告費用は上告人等の負担とする。
理由
上告人河合三郎、同吉原信之代理堤千秋の上告理由は、後に添えた書面記載のとおりである。
同第一点について。
所論は、原判決が、賃貸借解約の申入について賃貸人に正当の事由があるかどうかを判断するに当つて、証拠なくして事実を認定し審理不尽、理由不備の不法があると非難するに帰するのであるが、その論拠の一として、被上告人らが原判決認定のような生活に窮した事実があつたにしても、被上告人の実父母である高橋みゆき、高橋剛蔵並びに親権を行う母古田か弥、また叔父萩原香らの親戚がいるのであるから、これらが救済すべきものであると主張するが、このような主張は、法律上何ら根拠がないばかりでなく、この論を推し進めると人が種々の事情から経済上窮迫に陥つたとき、自分の所有家屋があつても、たまたま他人に賃貸してある場合は、常に、これには手をつけず、先ず親族らの救助を受けて切り抜けなければならないこととなり、社会通念からいつても一般的に当てはまるこのような道義的責任ありとは認められない。次にまた、論拠として、原判決の認定のように被上告人の借金等を支弁するため、本件の建物二棟の外、なお別件として明渡訴訟を提起している殆んど同様の建物二棟までを、これに引当てなければならないとすれば、この四棟の建物の価格を、空屋として、また賃借権附として、いくら位になるかを審理しない限り、単なる臆測に過ぎないと主張するが、上告人は原審においてこのような主張をしていないから、原審がこれについて判断をしていないのは当然であるし、また原判決は、証拠によつて、被上告人が「他に賃貸中の本件家屋二棟を含めての貸家四棟を、他に売却して調達する以外には、その自滅を避け得る方途を見出し難いまでの窮地に追いつめられている」と認定しているのであるから、さらに四棟の建物を評価し、審理をしなければならないものではない。さらに論拠として、上告人らは、本件家屋を戦時中から借受けていたので、互に協力して空襲よりこれを守り今日に至つたのであるから、原判決は、本件建物が従来から賃貸されていたものでないことを審理確定しない限り、空屋として売却することができる理由が不明であつて、原判決のとおりであれば、被上告人は本件家屋を空屋として売却することにより、不当に利得することとなると主張するが、家屋に居住する者が空襲より家屋を守ることは当時の社会情勢からいつて当然の責務でもあるから、仮りに本件家屋が戦災を免れたことは、上告人の協力に負うところがあつたとしても、これをもつて通常直ちに上告人らに法律上主張することができる権利が成立するとは考えられないし、また家屋居住者が、家屋を守る尽力をしなくても、焼失しなかつた家屋も多くあるのであり、本件家屋が、特に上告人らの行為によつて戦災を免れたものであるとのことは、原審においても、主張立証のない事項であるから、上告審においてこれを理由として原判決を攻撃することはできない。さらにまた論拠として、原判決は、賃借居住者がいては買手がつかない現状であるため、本件建物の明渡を求めるのやむなきに至つたと認定しているのは、その証拠がなく、単なる独断であると主張するが、賃借人の居る家屋は、売却するのに、空屋より遥かに困難であることは、わが国の現状においては一般的に公知の事実であるから、原判決の認定をもつて独断というのは当らない。
以上のとおりであつて原判決には、なんら所論のような欠点はなく論旨はいずれも理由がない。
同第二点について。
所論の前段は、上告人河合は、原判決の理由に挙げてある福岡県浮羽郡田主丸町の所有家屋を、福岡市内に別に家屋を新築するための資金として売却したと主張しているのに、原判決が、上告人河合は、今日においても田主丸町の住家に移転し得るように認定しているのは、証拠によらない認定であるという趣旨である。しかし、所論昭和二四年一月一八日の口頭弁論における上告人の主張は、所論家屋を「売却して得べき代金に」云々と見るのが相当であり、その家屋を「すでに売つてしまつて所有していない」という趣旨には見えないのみならず、すでに売却したことについては、なんら立証がないのであるから、原審が引き続き所有しているものと認定しているのは違法ではない。
また所論の後段は、上告人吉原について、原判決は、福岡県三潴郡大川町の実家に居を移すことは、なにもできない相談ではあるまいと判断しているが、上告人は原審において事情を述べ、右家屋に引移ることは不可能の状態にあること、また大川町から勤務地福岡市への通勤は実験則上電車によつても三時間以上を要するから、不可能であると述べていることから結局原判決の右認定は、証拠によらない独断があるというのである。しかし原判決は、上告人が大川町の家に居を移すことは、なにもできない相談ではあるまいといつているので、困難ではあろうが、不可能とはいえないという趣旨であることは明らかである。そして、終戦後の困難な住宅事情から、多くの通勤者が遠距離より通つている事例は多く、三時間以上を要する距離を通勤している事例もないとはいえない。従つて論旨もまたとることはできない。
同第三点について。
所論は要するに、上告人河合は、新に家屋を新築してでも家屋を明渡さんと努力したこと、上告人吉原は、原判決の認定したように被上告人の相当額の移転料提供に対し、これに数倍する立退料を要求したという事実も証拠もないこと、また原判決は、被上告人の本件賃貸借の解約申入について正当の事由があるかどうかを判断するのに、解約申入後の事情のみを考察し、その以前の事情を顧みなかつたのは、法律の解釈を誤つたというに帰するのである。上告人河合が家屋新築を企てたということを特に主張するのは、これによつて被上告人に賃貸借解約申入の正当の事由がないという理由の一つとする趣旨と解せられるが、なるほど原判決の事実摘示によれば、上告人河合が原審において被上告人側の懇請にこたえ、家屋を新築しようと思い立つたことを述べていることを認められるが、その立証がないばかりでなく、仮にそのような事実があつたとしても、単に思い立つただけで実現しなかつたことは、上告人の陳述自体で明らかであるから、原判決がこれを本件の正当の事由の判断に入れなかつたのは当然である。また上告人吉原が立退料を請求した事実も証拠もないと主張するが、原判決の挙げている各証拠を合せて見ると、被上告人が、立退料の金額を示して立退を懇請しても、上告人がこれに応じなかつたことが窺えるから、判示のような認定ができないことはない。所論は原審の専権に属する採証の是非を争うに過ぎない。さらに賃貸借の解約申入が正当な事由があるかどうかを判断する場合、解約申入当時及びその後の事情だけでもこれを認められる場合がないとはいえないから、このような場合には、必しも常に解約申入以前の事情を判断しなければならないものではない。のみならず、上告人の挙げる理由の一である上告人らが戦時中からの借家人であつたということは、なんら直接正当の事由の成立を妨げる根拠となるものでなく、賃貸人の事情の程度によつては、いかに古くからの賃貸人に対しても、解約の申入をしなければならない場合があるし、また他の理由の、上告人らが賃料等の支払を遅滞しなかつたとか、建物を故意に損傷しなかつたとかいうことは、賃借人の当然の義務でもあるから、賃借人にこういうことがなかつたということは、なんら賃貸人の側に生じた正当の事由の成立に影響を及ぼす理由とはいえない。よつて論旨は理由がない。
同第四点について。
仮に所論のように、福岡市における住宅難が実験則上明らかであり、また本件家屋が被上告人の唯一の財産でなく、佐世保市にも不動産を所有しているとしても、住宅難は全国の戦災都市を通じて一般的の事実であり、なおまた相対的な事情でもあることは、これまた実験則上明らかであるから、賃借人たる上告人らの困難が相当であるとしても、これは賃貸人たる被上告人が本件家屋の明渡しを求める事情の程度及びその経過と、軽重難易を比較考量する場合の因子たるに過ぎない。原判決は、所論のように「賃貸人と賃借人との利益を衡量し、」上告人側においても、住宅難の現状からいつて、本件建物を明渡すことは相当に困難であると認め、「賃借居住者である被控訴人等の犠牲もさることながら」と認定しながら、なお且つ本件家屋を売却することは、被上告人にとつては、直面している経済的危難を免れるための選び得る唯一つの最後の方策であつて、まことにやむを得ないものといわなければならないと判断しているのであり、この間法律の解釈を誤つた違法があるとは認められない。
同第五点について。
所論は、原審において主張しなかつた事実であるのみならず、本件の場合は、被上告人の母が、当時行方不明で親権を行う者がなかつたため、旧民法下の後見人が、民法八七四条、六五四条により、代理権を行使しているのであつて、その間になんら違法はなく、論旨は理由がない。
これを要するに本件被上告人のように、賃貸人が、戦災者で且つ学業中の未成年者であり、その家族は祖母だけで消費一方の存在である場合、多額の諸税金の納付、学資家計費の調達等のため、現在賃貸している家屋明渡しを求めて処分する以外に方法がないと認められるときは、他方賃借人の家族の数並びに職業と家屋との関係、賃借人の家屋買取についての態度条件及び賃借人の家屋明渡の調停についての態度条件、転住の困難の程度等を精査し、これを賃貸人の事情と比較考量した上、なお且つ賃貸人が直面している経済的危難を免れるためには、その家屋の明渡を求め、これを処分することが、唯一つの方策であることが認められる場合は、借家法一条の二にいわゆる正当の事由ある場合に該当すると認めなければならない。
以上の理由により、民訴四〇一条、九五条、八九条に従い、全裁判官一致の意見をもつて主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 井上登 裁判官 島 保 裁判官 河村又介 裁判官 小林俊三 裁判官 本村善太郎)